■.君とクロワッサンを食べる朝

 何でもない毎日が、これほど愛おしくなるとは思いもしない。

「おはよう、名前」
「ん……おはよぉ、?」

 シーツの中、こうしてしばらく互いの体温を分かち合う。柔らかな体を抱き寄せ、キスを落とせば彼女は擽ったそうに笑った。得られる幸福感は何にも変えられない。

「いっぱい、ねたなぁ……」

 名前はぐっと伸びをすると、ゆっくりとした動きでシーツから抜け出していく。それが寂しいと、俺はぺたぺたと歩きながら洗面所へと消えていく彼女の背中を追った。

「ふふっ、もうダメだって……っ」

 鈴の鳴るような声で笑う名前が愛おしくて、どうしてもちょっかいを出してしまう。後ろから抱きしめながら、そうして一通り名前と戯れた後、俺は朝食の準備を始める。名前が選んでくれたペアのマグカップにコーヒーを注ぎ入れると部屋は芳ばしい香りに包まれていった。軽くトーストしたクロワッサンを、これまた名前が選んだクリーム色の平皿に乗せれば、彼女は目を奪われるようにしてテーブルへとやってきた。

「んーっ、いい匂い!」
「焦がさず、うまく焼けただろう?」

 他のものより焦げてしまい易いクロワッサンは、一度、悲惨な状態にしてしまった経験がある。少し目を離しただけだったのだが、その数秒が命取りになるらしい。名前はトースターを開けながら、やりがちだよね、と笑っていたが、目尻が悲しげに下がっていたのを見逃さなかった。

「うん!上手、上手!ありがとね!」

 その言葉に俺は安心し、小さく口元を緩ませる。

「じゃーあ、いっただっきまーす!」

 無邪気な笑顔を浮かべながら、名前は真っ先にクロワッサンへと手を伸ばした。大きな口を開けて齧り付いているのだが、彼女の口に入り切らなかったクロワッサンの欠片がはらはらと皿へ舞い落ちていく。それを気にもせず、名前は幸せそうに目を瞑っていた。

「ん、っ……秀一さん食べないの?」

 ごくりと、一口目を飲み込んだ彼女は微かに首を傾げている。その仕草も、揺れる毛先も。どうして君はそんなに。

「名前、ここに付いているよ」

 小さな唇の端に、小さなクロワッサンの欠片が残っているのを指摘してやれば、名前は少し顔を赤らめた。ソファーで隣り合っていたのならば、その可愛らしい唇ごと食べてしまったのだろうが、今はテーブルが邪魔だ。彼女は案の定、反対側の頬に手を伸ばしている。

「ん、?取れた……?」

 指先を確認するその仕草でさえも眩しい。目を細める事でようやく見ていられるようだ。

「んん、いいや?」
「あれ……?」

 すると名前は“取って?”と言わんばかりに顔を差し出してくる。その素直さが堪らなく愛おしい。

 腕を伸ばして親指で彼女の唇に軽く触れると、その弾力に昨夜の甘い口付けが思い出される。柔らかな唇が俺の唾液に濡れ、唇の隙間からは艶やかな声を漏らし、懸命に縋り付くその様が脳裏にチラついた。そんな邪心を持って見ているとは露程にも思わないのか、無邪気な瞳を向けてくる名前がいじらしい。

「……取れたよ、」

 さらりとクロワッサンの欠片を攫っていくと、彼女が満足げに笑った。

「ありがと!」

 その笑みを噛み締めてから、自分の親指についた欠片をぺろりと舐め取る。対して味もしない小さな欠片ではあるが、彼女の唇に付いていたものなのだから特別に感じた。

「ね、これ食べる?すっごく美味しいよ!サックサクなのっ」

 同じ日本語であるはずなのに、彼女の口を通すと全く別の言語に聞こえるのだから不思議だ。どうしてそう、愛らしい言葉ばかりが飛び出してくるのだろう。

「それにバターがね、もぅ、ふわ〜って!」
「……香る?」
「うん、きっと高級バターだよ。食べる?」

 食べる?と聞きながらも、それはつまり、俺に食べさせたくて仕方がないから食べてくれ、という意味なのだろう。断る理由もなく口を開けて顔を差し出すと、やがてバターの芳醇な香りが鼻を抜けていった。

ーパリッ

 やはり、はらはらとクロワッサンの欠片が机の上に舞い落ちていく。

「うん、美味しいな」
「ね!だよねっ!買ってよかったね!お店に入った時にさ、もうこれだって目がいっちゃったもん」

 ドライブがてら、街のパン屋を巡りをするようになって今日で3回目。初めは言われるがまま車を走らせ、トレーにパンを乗せていたのだが、これほどまでに楽しい時間が待っているとは思いもしなかった。朝が来るのが待ち遠しいと思いながら過ごす帰り道も、朝を待つ為に過ごす熱い夜も全てが愛おしく感じる。

「ね、秀一さんのパン、冷めちゃうよ?」
「……ああ、いけないな。俺も頂くよ」
「うん、ベーコンチーズだよね?おいし?」
「っ、ん……美味しいよ。食べてみるか?」

 そうしてテーブルから身を乗り出し、彼女の方へ腕を伸ばす。大きく口を開けた名前が、パンに齧り付く。

 そんな日々がどうにも堪らない。柄にもなく、互いの薬指に嵌っているシルバーリングに何度も目をやりながら、胸の奥を熱くしていた。